「さよなら」



さよなら。
誰もいない部屋につぶやく。
戻ってくることはない。
絶対に。

靴を履き、もう一度部屋を見渡してみる。


格子柄のカーテン。
大きめのクッション。
何も入っていない水槽。



本当はみんな持って行きたいけど。
ごめんね。
できるだけ荷物は少なくって決めたから。

もう少しきれいに片付ければよかったかな。
いいよね。
もともとそんなにきれいな部屋じゃなかったし。

いいよね。



もう行こう。
帰ってきちゃうかもしれない。

ゆっくりとドアを開けて、
ゆっくりとドアを閉める。



「今うちから出てきましたよね」


不意に声をかけられ、驚いて声の方向を見る。
大学生風の青年が立っている。


「あなた誰ですか?」


私は答えない。


「人んちで何してたんですか?」


と、青年が言い終わらないうちに私は体当たりをぶちかます。
青年はぶっ飛んで倒れる。
私は倒れない。
でもその拍子に私のポケットから通帳と数枚の万札が落ちる。
それを見て青年があっ!!と叫ぶ。
私は全力で走り出す。
倒れている青年の横を通り、階段を3段飛ばしで駆け下り、路地に出てでたらめに右折左折を繰り返す。
息が切れる。
限界が近い。
こんなときこそ力まずに。
いいフォームで。
腕を大きく振るのを心がける。
そうすれば自然と足が出る。
でももう限界。
後ろを振り向く。
誰もいない。
走る速度を緩める。
歩くより遅いくらいまで緩める。
息を整える。
だいぶ楽になる。
立ち止まる。
たたずむ。

ポケットに手を入れる。
あぁ、走りにくかったのはこいつのせいか。
私はポケットに入っていた青年の印鑑を全力で投げ捨てる。
印鑑は思いのほか遠くまで飛んでいった。
気持ちがいいくらい。
うん、気持ちがいい。


今日は何かいいことあるかも。

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