「モニターボブ」

夢で見たよ、と彼から電話がかかってきた。どうやら、わたしが夢に出てきたらしい。悪気も何もなかったのに、わたしも見たよ、と嘘をついた。何分か話して電話を切ったあと、しばらく彼のことを考えていた。その間は彼もわたしのことを考えてくれているような気がした。
 彼は地下にいる。文字通り、彼は地下で生きる。地下から出られない類の仕事に関わっているのだ。国家的かつ軍事的なものだから、機密も多い。電話の回数も限られているし、すべて第三者に聞かれている。ひょっとして囚人より窮屈かもしれない。
 それでも彼は電話でわたしに対して甘い言葉を伝えてくれる。どれだけ愛しているか、どれだけわたしのことを思っているのか。少しいやらしいこともささやく。わたしはこの電話を聞いている男のことを想像してしまい、とても恥ずかしくなる。わたしはその男のことを勝手にボブと呼ぶ。口にこそ出さないが、黒人で筋肉隆々のスキンヘッド頭の男をイメージしている。そんなボブがヘッドフォンだか受話器に耳を当て、わたしたちの言葉を聞いているのだ。ボブは真面目な顔で、そこに何か機密が漏れている様子はないか、何かしらの情報を暗号に換えられていないか、と探る。
 しかしもちろん、ボブのイメージは勝手なものだ。実際には、どのようにわたしたちの会話を聞かれているのかは、もちろんわからない。というか、もしもそういう役割があるのだとしたら、本当はボブではなくて、スーツ姿でメガネをかけたインテリ風な男がわたしたちの会話を聞いているはずだ。ボブでは荷が重い。筋肉で暗号は解けないのだ。

 わたしは彼のことをしばらく考えてから、仕事に出かけた。わたしの仕事は彼とは違い、いたって普通だ。ここは地上なのだ。ただの会社員、ただの事務。わたしの仕事内容が漏れたりしないか、と誰も気を揉まない。わたしの電話を盗み聴く人もいない。
 彼は少なくとも、あと一年は地下から出て来ない。彼自身、そこで作られているものの総体は知らないはずだ。彼はわたしが浮気をしても気がつかないだろう。バレる可能性はゼロだ。わたしと彼が繋がるのは電話を通じてだけだ。そしてそれさえも第三者に介入されている。
 しかしわたしは浮気をしない。それはわたしの彼への誠意の表れ、というほど立派なものではない。正直なところ、誰もわたしを誘ってこないのだ。多分、それほどの魅力がないのだろう。もし誰かからアプローチをかけられたら、わたしはついていってしまうかもしれない。きっぱりと断る自信がない。わたしはきっと、もっとちやほやされたいのだ。
彼は地下にいてもわたしのことを愛してくれている。でもそれはもしかしてわたしの思いすごしなのかもしれない。地下に閉じ込められて、大規模で機密性の高い仕事をするということは、そこでの労働者に向けての、いやらしいサービスもあるのかもしれない。もちろん彼はそんなことを教えてくれない。そういう性欲的なものと、わたしへの愛情は別ってことなのかもしれない。留保すべきことはいろいろあるけれど、もちろん、わざわざ彼が電話をかけてきてくれるのはありがたいと思っている。
それなのに、わたしは電話で嘘をついてしまった。彼をだましたかったわけではない。だけど自然に、何の罪悪感もなしに、するっと自分も彼の夢を見ただなんて言ってしまった。嘘をついたとき、わたしは自分が何の夢を見たかはっきりと覚えていた。

真っ黒くて大きなクジラと共に、ふちのない巨大なベッドで寝ていた。わたしはクジラの表面のぬるぬるとした部分と、ざらざらとしたところを順々に繰り返し触っていた。足や腿の内側や手首や手のひらで撫でる。クジラはうっとりとして目をつむっている。ときどき背中の穴からふしゅうふしゅうと空気が漏れた。ちろちろと潮らしいものが染み出して、わたしの服を湿らせた。それでもわたしはクジラを抱きしめる。あまりに大きいのでそれはただしがみついているだけだったけれど、わたしは懸命に手を広げてクジラに寄り添う。ベッドの上をクジラはごろごろと転がる。いくら転がっても、ベッドには終わりがない。わたしは離されてしまわないように、クジラに抱きつく。わたしの身体は巨大なクジラの上になり、下になり、また上になる。ぐるぐるとわたしは回転する。クジラは温かく、そしてその身体の表面には心地よさと刺激的な部分が混在している。

 目が覚めたときにわたしは泣いていた。しかし悲しいわけではなかった。涙は夢に出てきたクジラの潮のようなものなのだと思った。ただの自然現象だ。
 だけど電話で自然に嘘をついて、そのあとで彼のことを思っていたら、また涙が出てきた。それでわたしはさみしいのだとわかった。彼のことを好きだから、単純に、会えなくて、声だけしか聞けなくてさみしいのだ、と思った。

 それじゃあどうするかと言っても、さみしさを紛らわすすべを知らない。彼から電話がかかってきて、朝から愛についての言葉を聞かされたり、それに付随したいやらしい言葉をささやかれたり、わたしにも愛の言葉を強要されたりして、そのことすべてを楽しむためにはどうしたらいいのだろう、と思う。彼からの愛情だと受けとめる要素やきっかけは、電話のこうしたやりとりだけなのだろうか。それを自分の愛情の糧とするためには、どうすればいいのだろうか。
わたしは仕事中もそのことを考えていた。いつもよりも余計にミスが出た。3つのミスと4つの叱責。それらをやり過ごしたあとも部屋に戻り、わたしは考え続けた。夢のことを思い出して、ひとりでいやらしいことをしてみた。その間もずっと考えていた。

 彼から電話がかかってきた。月に電話できる数は限られているというのに、本当にマメなのだ。この日は夢を見なかった。見たとしても覚えていなかった。彼はまた夢を見たよと言った。わたしは、うん、としか言わなかった。今度は嘘をつかなかった。わたしは嘘をつく代わりに、彼に話しかける代わりに、ねえ、ボブ、とボブに向かって呼びかけてみた。ボブ? ボブって誰だよ、と彼は笑った。突然わたしが冗談を言い出したのだと思っているらしい。
 ボブにお願いがあります、とわたしは言った。これから一分間だけ、どうかわたしたちの電話を聞かないで欲しい。耳を閉じて欲しい。できたら席を離れて欲しい。そう話した。もちろんボブからは何の反応もなかった。何言ってんだよ、と彼が戸惑うだけだった。それでもひと息ついて、わたしは続ける。ただ彼に愛を伝えたいだけなのです、それを聞かないで欲しいのです、何もやましいことはしません、もし問題なら、あとからテープか何かで聞き直して、彼のことを処分するなり、殺すなりしてもらっても構いません。だから、今だけ、一分間だけ、席を外してください。お願いします。
 ボブは何も話さない。彼が、唾を、ごくり、と飲む音が響いた。わたしはボブのことをイメージする。タンクトップからはみ出そうなほどの筋肉を身にまとった黒い男が立ち上がり、席から離れる様子を想像する。彼がモニタールームの扉から出ていく。わたしたちは二人きりになる。わたしと彼だけが一つの線で結ばれる。地上と地下を超えて、わたしたちは一本で繋がる。誰の邪魔もない。
 わたしは彼に愛を伝える。これまでは第三者がいると思って、しっかりと伝えきれなかった言葉を伝える。それはベタなもので、かなり安直で、どこかから借りてきたようなフレーズだ。多分、わたしオリジナルの言葉なんかではないはずだ。だけど、わたしの口から発して、わたしが本気で心を込めたら、それは地下であっても、ちゃんとわたしの言葉として、わたしの愛として、伝わるはずだ。わたしはそのための環境を作りたかった。ボブをイメージしたままでは、それができなかった。今やボブはいない。わたしは彼氏に愛していると伝える。地下に閉じ込められた彼へ向けて、繰り返し続ける。
 約束の一分間が過ぎていることに気づいたけれど、それでもわたしは余分に愛を口にした。それは彼へと届くのがわかる。彼は地下で泣いている。彼は彼なりに抱えている思いがあるのだとわたしは知る。彼なりに傷ついていること、彼の一部が損なわれていること、それでもわたしへの愛情が形として手に触れられるくらいに彼の中に存在していることをはっきりと理解する。わたしはもう泣かない。ボブはとっくにモニタールームに戻ってきている。すでに専用のイスに腰掛けている。モニター用のヘッドフォンを手にかけるけれど、すんでのところで耳に当てるのを止める。誰に向けるわけでもなく、やれやれ、という表情をして、あと30秒待ってくれる。きっと根はいいやつなのだ。

▲上まで戻る