「いやらしい鬼」

 いやらしい鬼にとりつかれてるよ、とハツコさんが言った。ハツコさんは霊感が強いので、どきりとした。いやらしい鬼、という言葉の響きに、ぞくぞく、とした。

 わたしとハツコさんは河原を歩いていた。山から流れる川が市内を抜け、その岸は遊歩道となっている。8月の後半とは言ってもやたらと暑い午後で、わたしもハツコさんも汗をだらだらと垂らす。拭いても拭いても溢れてくるのでとっくに諦めている。暑さのせいか川岸には誰の姿も見えない。そもそもこの日は町にも人が少なかった。ハツコさんが来るときはいつもそうだ。
強烈な日差しの下、わたしたちは帽子もかぶらずに歩く。やがてハツコさんが、いやらしい鬼にとりつかれてる、とわたしに言った。わたしは暑さも忘れて、ぞくぞく、としていた。それから、鬼って男? 女? と尋ねる。ハツコさんは即答で、女、と言った。うわあ。わたしは汗をぽたぽたと河原の小石に垂らしながら声をあげた。

 ハツコさんはわたしの父の娘らしく半分だけ血は繋がっている。だけどハツコさんが突然現れたのはわたしが大学生のときだったので、今さら家族なのかよくわからない姉が出てきたところでどう反応していいのかわからなかった。あいにく父はすでに亡くなっていた。だから本当のところはわからない。特に遺産とかを要求されたわけでも、わたしたちの家庭にずかずか入り込んでくるわけでもないから、母もハツコさんのことは放っている。実はとっくの昔から母は知っていて、あれこれ整理ができているのかもしれない。
 ハツコさんはたまに父の墓参りにやってくる。住んでいるところは離れているので朝早く来て夕方には帰る。その間わたしが相手をすることになる。わたしは特にハツコさんのことを好きでもなかったけれど、嫌う理由もなかった。わたしとハツコさんは確かに似ているところが多い。だけどわたしは母似だとよく言われていたから、それはたまたまなのかもしれないし、血が繋がっている、という思いからそう見えるだけなのかもしれない。
 ハツコさんはお盆を過ぎたあとにやって来た。前日の夜に、翌朝行く、という連絡が携帯電話に入った。わたしはたまたま仕事が休みだったし何も予定がなかった。ハツコさんはそういうことがわかってしまうのだ。だから断ることもできない。わたしはいつものようにハツコさんを駅で待った。在来線に乗ってハツコさんはやって来る。到着の時刻も一方的に知らされて、わたしはそれに合わせて駅に出かけた。ハツコさんはいつものようにシンプルな白い綿のような素材のシャツを着ていた。
わたしたちはぼそぼそと挨拶をしてから父の墓がある寺へと歩いた。駅の裏側にはずらりとお寺が並ぶ。わたしは無口なほうではないのだけれど、ハツコさんといるとどうしても黙りがちになってしまう。ハツコさんも特に何も言わない。わたしたちには共通の話題もない。父のことさえほとんど話さない。だけどハツコさんは口を開けば霊的なことばかり言うのであまり聞きたくない。ハツコさんとしても特に聞かせたいわけではないのかもしれない。ただ口にしてしまうのだ。わたしはハツコさんが何かが見えたと口にする、樹の上とか線路とか電柱とかガードレールとか屋上とかを見つめてしまう。もちろんわたしには何も見えない。
 墓参り自体はそっけない。ただ手を合わせて祈るだけだ。花も供えないし水もかけない。ハツコさんは、お墓には水をかけないほうがいいのよ、と言う。わたしはそれを信じない。間違ってもいないのだろうけれど、数日前に来たときには母としっかりと水をかけて洗い流した。そしてじっくりと時間をかけてお参りをした。墓の前にはそのときの花が挿してあり、すでにぐったりとしおれていた。
 それからわたしたちは町を歩いた。寺町を離れ商店街を抜けて、やがて川の近くまでやって来た。河原に降りて遊歩道を並ぶように進む。そのときにハツコさんが、いやらしい鬼がついている、と言い出した。わたしとしてはできればそんなことは聞きたくなかった。
 祓ってくれないの、とわたしは尋ねた。ハツコさんは、無理ね、と即答した。ハツコさんはだらだらと汗を垂らしている。わたしも同様だ。身体のすべてがねっとりとする。どうしたらいいのかわからない、と言うと、どうもしなくてもいい、とハツコさんがまた即答する。鬼なんて怖い。鬼は鬼でもいやらしい鬼だから。でも鬼は鬼でしょう。どうだか。わたしたちのやりとりは生まれる時期を間違えたトンボのように頭上でぐるぐると回る。どこにも行かない。わたしはときどき、いやらしい鬼、という言葉の響きやその余韻に、ぞくぞく、とする。霊感はないのにハツコさんの言葉のせいで身体がおかしくなってしまう。わたしたちは河原を歩く。駅で待ち合わせてからずっと歩いていたような気がするけれど、目的地がないからかどこにも辿りつかない。
 夕方になってわたしたちは駅に戻る。強烈な太陽の日ざしを一日浴び続けたせいで腕や頬やおでこがひりひりとする。二人とも化粧がすっかり落ちている。だけどハツコさんがちょっときれいに見える。ハツコさんは何も言わずに改札を出る。手も振らない。まともな別れの言葉もない。後ろ姿を見るとハツコさんの首は少し日焼けしている。
 わたしといやらしい鬼が取り残される。電車はすぐに出発する。音も立てずにそれは駅から離れていく。今度ハツコさんが来るときにまではいやらしい鬼がいなくなっていればいいのだけれど。わたしはまた身体を、ぞくぞく、とさせて駅から出る。ハツコさんが帰る町のずっと向こうで太陽が沈みかけている。

▲上まで戻る