「鼻夫婦」

 仕事はどうしたんですか? と妻が尋ねるので、オフィスが全面工事なので今日は休みだと嘘をついたら、鼻が伸びて、げろを吐いた。本当は何日も前に首になっていて、しばらくは仕事もないのに家を出て時間をつぶしていた。しかしあてもないのに朝から夕方まで外をぶらぶらするのは辛いし、金もないので、今朝になって心が折れてしまった。そこでついに、家から出ない、という決意をした。
 それでもいざ妻からどうしたのか尋ねられると、本当のことを話せずに思わず嘘をついてしまった。オフィスの全面工事があるなどと言ってみたものの、今や会社のことなんか少しも知らない。社名すら忘れてしまいたい。
 嘘をついて鼻が伸びるなんて驚きで、そんなのは寓話でさえ聞いたことがない。しかもそれなりに痛い。ぶちぶちと血管が切れるような音だってする。おまけに罪悪感からなのか、プレッシャーからなのか、胃の中のものまで戻してしまった。妻はわたしの体調をやさしく気遣ってくれたのだが、それが余計に堪えた。おかげでまた少し吐いた。
 鼻が伸びたことに妻は気がつかなかった。身体の具合を心配してくれるものの、鼻の変化については一言も何も口にしなかった。手で触ってみても、鏡で確認しても鼻は確かに伸びていた。
翌日も妻に嘘をついた。そして鼻がまた伸びて、また少し吐いた。妻はわたしが首になっていることを想像していないのだろう、まるで疑いを持たなかった。それどころか、体調がすぐれないという仕事を休んだ言い訳を信じて、心から心配してくれた。そのことでまた吐きそうになる。鼻が伸びる。鼻が痛い。
 数日間、同じことを繰り返すと、いよいよ病院に行くように妻から言われたので、それには逆らえずに出かけた。いずれにせよ嘘をつくことで吐いてばかりいたし、伸びたあとでも鼻がむずむずする。体調は決してよくない。心配する妻をおいて一人で病院に行った。家を出ると、確かにいくらか気が晴れた。
 病院で適当に病状を申告して吐き気を治める薬をもらったが、鼻のことは説明できなかった。だいたい誰が信じてくれるのだろうか。もしも鼻のことを話したら、精神科へ回されるだろう。お金だってかかる。世間体だってある。病院から出たあともしばらく町をうろついてから家に帰った。
 もらってきた薬を飲んでも嘘をつくたびに吐いてしまう。おまけに鼻も伸びる。いよいよわたしの人相は変わりつつあった。顔は鼻そのものであり、わたしは鼻そのものだった。しかし妻は顔の変化に気がつかない。一週間も家に居続け、妻に嘘をついてきた。おかげでわたしは吐いてばかりいた。
いよいよそれにも耐えきれなくなったので、妻に本当のことを話した。わたしの鼻はすでに一メートル以上あった。良心が伸びる鼻と嘘の重みに耐えきれなかった。おまけに嘘の理由も思いつかなくなっている。
妻は話の途中から泣き出したが、それはわたしを責めるというよりも自分がもっとできることがあった、自らの力足らずだった、と悔いているかららしい。そのことでまた申し訳ない気持ちになった。しかし吐きはしなかった。もう嘘もつかなかった。気分はせいせいとしていた。そのせいか、わたしの鼻が縮んでいく。鼻が縮むのは少し気持ちよかった。みるみるうちに鼻が元に戻っていく。
 わたしの鼻が縮み終わるころにようやく泣き止んで顔を上げた妻は、あなた誰? と言った。妻が冗談か皮肉で言っているのかと思ったが、本当にわたしが誰なのかわからないようだ。長年連れ添ってきた妻にそんなことを言われるのも驚きだったが、鼻が元に戻ったわたしはある種の開放感に溢れていた。わたしはわたしだと宣言する。そして、わたしであることの証拠を挙げていく。妻は少しずつ納得していったが、それでも急にわたしを認識できなくなったことに驚いていた。
妻は、あなたの鼻がまるで違って見える、と言った。わたしは以前の状態に戻っただけなのに、妻からするとわたしの鼻が伸びていた状態のほうが自然だったのだろうか。
 妻は涙を拭き取って、わたしを見据えた。元に戻った鼻を見られているようで、少しばかり恥ずかしい。妻はようやく気分が落ち着いたようだった。それから静かな口調で言った。何があっても、あなたと共に生きていきます。
 鼻がにゅっと伸び、妻は少し吐いた。

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