「肉焼き」

 隣人が庭でバーベキューを始めた。どでかい肉を独りで焼いている。隣人の妻と一人娘は一ヵ月ほど前に家を出て行ってしまった。隣人は妻のことも娘のこともどちらも同じくらい激しく殴ったらしい。
家族で暮らしていたときには一度もバーベキューなんてしたことがなかったのに、どういう心境なのだろうか。オレはリビングの窓からじっと男の様子をうかがっていた。庭越しに男がちらちらとオレのほうを見ている気がする。オレにもバーベキューに加わって欲しいのか。それとも実際はオレのことなんてまるで見ておらず、ただ妻と娘が戻ってくるのを待っているのだろうか。生憎、三ヵ月前にオレの妻も出て行った。オレは隣人と違って妻を殴りはしなかった。しかし妻はほかに男を作ってそいつのところに行ってしまった。その男は妻をかなりハードに殴るというのだから、話はいくぶんややこしい。妻は帰って来ず、オレは独りだ。家族に見捨てられた男の家が二棟並ぶ。町でもとびきりの屑が住むストリート。新しい観光地の誕生だ。
 隣人はさっきから肉しか焼いていない。しかも一口も食べずにひたすら焼くばかりだ。次から次へと肉を焦がす。大きな肉が表面から黒くなっていく。焦げた部分は網の隙間からぼろぼろと落ちる。その上にまた肉が乗せられる。男のわきには大きなズダ袋が置いてあって、中には肉がたっぷり入っているようだ。想像するだけで気分が悪い。よく見ると隣人は泣いていた。男はタンクトップを着て、肩にはタトゥーまで入れている。そんな大男が涙を流しながら巨大な肉の塊を焼く。オレは一瞬同情しそうになった。しかしもしオレがこの光景を見て泣くのだとしたら、それは男のためではなくきっと自分のためだ。男の姿にオレ自身を投影しているだけに過ぎない。オレはオレに同情して泣くのだ。オレは窓に張りつくように庭の様子を見ながら、涙をこらえた。そして妻の名前を一度だけ口にした。もちろん家の中には誰もおらず、何者も応えなかった。室内はすぐに静かになる。視線の先ではぼろぼろと焦げた肉が網の下へと落ちる。

 思えばオレと隣人にも幸福な季節があった。二年前の夏だ。普段、祭は小規模のものしか行われないのだが、町ができて何十周年とかの記念で、大がかりなものが催された。オレも妻も準備に一ミリたりとも関わらなかったし、混雑がいやで当日出かけもしなかった。 夜になって、オレたちの町では見たことがないような豪華な花火が次から次へと打ち上げられた。オレも妻も庭にビニールシートに広げ、夜空を見上げていた。まだオレたちに軋轢やら摩擦やらはなかった。妻とオレは缶ビールをちびちびと飲みながら、ときどき腕と胸と首と足と指をからめる。退屈で窮屈な町の上で、様々な色の光がきらめいていた。火薬の匂いがオレたちのすぐそばまで風に乗って運ばれてくる。町の予算が飛んでしまうのではないかと思えるほど、花火は終わることなくいつまでも続いた。
 やがて隣人が帰って来た。彼らは家族三人で祭に出かけたようで、まだ小さかった隣人の娘は金魚が入ったビニール袋を手にしていた。祭で買ってもらった菓子を母親に持たせ、少しくたびれたような顔をしている。普段はほとんど交流がなかったが、隣人はオレたちに気がつくと手を挙げて挨拶した。そのときも隣人はタンクトップ姿だった。オレも笑顔で応える。隣人たちは一旦家の中に引っ込んだものの、すぐ庭に出てきた。バカみたいな色のデッキチェアを持って来て、庭の真ん中に置いた。そこに寝転んだ隣人は怒涛の勢いで缶ビールを飲みまくり、ときどき大声で笑った。オレと妻は尚も身体をひたすら密着させている。花火は大きくやたらと派手で、常にオレたちの真上にあった。
隣人の娘は父親に寄り添うようにデッキチェアの縁に座り、そこでうつらうつらとしていた。眠りながらも鮮やかな色をした飴を握っている。その飴は異様に大きくて、手持ち用の棒が刺さっていた。目が回りそうなほどのぐるぐるとした模様で、どの角度から見ても身体に悪そうだ。娘が眠っているうちにするりと手からこぼれ、飴は芝の上に落ちてしまう。隣人がそれを拾い、しばらく表面についたゴミを取り除こうとしていたが、やがてあきらめてまた芝の上に投げた。隣人の妻はすぐにその飴を拾い、再度回復を試みたが、結局どうにもならずに放り投げた。不器用な軌道を描き、先ほどよりも遠く離れた芝の上に飴が落ちた。飴の行方を見届けると、オレも妻も隣人もその妻も、空を見上げて花火を眺めた。しばらくすると娘が目を覚ました。飴が地面に落ちて駄目になったことを知ってぐずつく。それを隣人が太い腕で抱きしめるようになだめる。
 祭は終わりに近づき、ラストスパートをかけるかのように花火が休むことなく連続で打ち上がる。ありとあらゆる色が空に埋め尽くされる。それは原初的な光景にすら思えた。うつくしかったが、同時に切なくもあった。轟音で妻の声が聞こえなくなる。妻は何ごとかオレにささやいていた。隣人の娘が大きな音のせいか、あるいは飴が台無しになったことがぶり返してきたのか、顔をくしゃくしゃにして泣き始めた。しかしその泣き声もオレには聞こえなかった。花火はなかなか終わらない。妻はオレの耳でささやくが、温かい吐息がかかるだけだ。何を言っているのかオレにはわからない。隣人はまだ泣きやまない娘を抱えるように持ち上げる。娘は身体を揺さぶるように泣いている。花火の下では泣き声は聞こえない。
花火が終わると、オレたちも隣人もそれぞれの家にぞろぞろと引き上げた。庭から戻るとき隣人と目が合ったが、今度はどちらも手を挙げない。会釈すらしない。隣人の娘はまだ泣いている。その声はようやくオレの耳にも届く。オレと隣人はしばらく見つめ合う。隣人の背後にはもはやゴミそのものとなった飴が落ちていた。何も言わず、オレも隣人もビニールシートやデッキチェアの片づけを翌朝に延ばして、家に戻った。頭の中で花火の余韻が残り、いつまでも爆発音が響いていた。屋内に戻るときには花火の最後で妻が何と言っていたのか尋ねようと思っていたのだが、結局、忘れてしまった。

 男は肉を焼く。網の上の肉は尚も焦げ続ける。隣人の家族が戻ってくる様子はない。庭はすでに荒れかけている。あちこちにゴミが散らばり、うつくしかった芝にかつての面影はない。もちろんオレの家のほうが、その崩壊は先んじている。焦げた肉がぼろぼろとこぼれながら、火の中へ落ちていく。リビングからでもその様子がはっきりとわかる。隣人は袋から取り出した肉の塊を乗せる。肉の上に肉を重ねる。肉が焦げる、ふしゅうふしゅう、という音さえオレにははっきりと聞こえる。空を見上げても、もはやそこに何の色もない。

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