「アイスキャンディーだったらよかったのに」

 妻が角を触りに行こうと言うのでついて行った。たどり着いたのは町のはずれにある集合住宅の一室だ。鍵のかかっていないドアを開けて、キッチンやトイレなどが並ぶスペースを抜けると、奥の部屋には何もなかった。家具も照明も、それどころか窓さえない。ただ正面の壁から一本、黄色い角が生えていた。角はかなりの長さで、先は鋭く尖っている。触り方によっては大怪我をしてしまうだろう。
 妻に部屋の中に入るように促される。中は薄暗く、白い壁には染み一つない。壁から床から天井まで白い素材で覆われている。角の黄色がより浮き上がって見える。妻はわたしの背中を押して角へ近づけようとする。わたしはまったく気分が乗らない。だいたい、この部屋は誰のものなんだ。妻のものなのか。狭い部屋とはいえ、所有できる余裕はないはずだ。妻の浮かれた様子に苛立ち、ますます角には近づきたくなくなる。さあさあ。さあさあ。妻の声は弾んでいる。わたしは角を触りたくなんてない。あんな危険なものに触れようとするだけで、頭がどうかなってしまいそうだ。どうして妻はこんなに能天気にもはしゃいでいるのだろうか。白い壁に囲まれていると、次第に遠近感が失われていく。息苦しさも感じる。妻の弾けるような吐息と嬌声以外、部屋は何の物音もしない。外からも何も聞こえてこない。角は壁から生え、緩やかではあるものの、不穏な雰囲気のカーブを描いている。怪しさという概念が収斂されたような曲線の果てにある、その先端はあまりにも鋭い。
 この部屋は角部屋ではないので、壁の向こうがどうなっているのかも疑問だった。角は固定されたというよりは、壁から生えてきた、としか思えない。角の先端は、どの角度から見ても自分のほうに向いているように見える。

 わたしたち夫婦の間には子供ができなかった。わたしとしてはどうしても欲しいわけでもなかったので、それほど気にせずにいた。しかし妻の意見は違った。そろそろ子供を産まないといけない時期だとしばしば口にする。言い合いにこそならなかったが、妻が妊娠するための情報をあちこちから仕入れてくるたびにうんざりしていた。こちらとしても過度のプレッシャーになってしまう。身体の機能的にも、子供を特に欲しがらないという心持ちにしても、まるでこちらが正常でないような気分にさせられる。こうした子供に対する意見の相違もあって、妻との関係は少しぎくしゃくしていた。
 そして妻は角を触りに行こうと提案してきた。わたしの仕事の休みを利用して、気分転換に、それと赤ちゃんのために出かけよう、みたいなことを妻は言った。わたしにはまるで何のことかわからなかった。しかし共に出かけることで、いくらか緊張感をはらんだ関係も改善されるのではないか、とデートに臨むような気持ちで妻の誘いに乗った。
 そしたら本当に角だ。妻が言っていたことに間違いはないが、それでも壁に生えた黄色い角を前にすると、ここに来た目的が何なのか、わたしたちは何を得ようとしているのか、いよいよわからなくなる。

 一歩も前に進まないわたしに痺れを切らしたのか、妻はよたよたと自ら角に近づいた。すぐに角の根元、壁から突き出した太い部分を撫で始める。その仕草は卑猥だが、妻には何の迷いもなかった。そういえばわたし自身、こんな具合に妻から撫でられたことなんてあっただろうか。一瞬、黄色い角に嫉妬しそうになる。しかし角の先端を見つめていると、わたしの高ぶった気持ちは急に萎えていく。わたしは少しばかり先端恐怖症の気があるのだ。
 妻はひとしきり根元を撫でたあとわたしを見て、ほら、と言った。ほら、とはどういう意味なのかわからずにわたしはただ頷いた。妻は外国人がやるような手招きをした。それどころか、カモン、とも言った。わたしは角の先を見ないように首を振った。
 赤ちゃん、赤ちゃん、赤ちゃん。ほら、赤ちゃん。妻は連呼する。それは喘ぎ声とは程遠かったが、どこか艶っぽかった。
 簡単な見立てとして解釈するならば、角がわたしの性器を表していて、それに妻が触れることによって、性的なニュアンスが帯びてくる。四角く白い空間の中で、ある種の比喩的行為が行われるわけだ。そしてわたしたちは子供を授かる。角のおかげだ。しかしそれはそれで本当にわたしの子供だと言えるのだろうか……。
 いよいよ妻は角をべろべろと舐め出した。根元から丁寧に舌をはわせる。カーブに沿って、つうううっと舌を走らせる。角の裏も満遍なく、そして先端まで丁寧に舐める。妻の舌の動きを引いた位置から客観的に見るのは初めてで、それがうれしいのか悲しいのかわからない。ただ妻は角を舐める。先端まではわせた舌をまた根元までゆっくりと動かしていく。上下の唇も同時に角に触れる。角の表面は妻の唾液まみれになり、粒となって床に落ちる。ぽたり、と小さな音が部屋に響く。
 妻は、ほら、とまたわたしを見る。わたしは、ほら、ってなんだ、と言った。妻はそれには答えない。そしてまた角を舐める。今度は手も一緒に動かしている。角を撫でながら、妻は先っぽをくわえる。わたしは思わず目をつぶる。あんなものを口に含んだら、大変なことになる。
しかし、血は流れない。妻は先端が刺さらないように気をつけながら口を動かして、角を撫でる。そして口に含みながらわたしのほうを見る。ほら。さあ。どう? そんなことを言っているようでもあるが、はっきりとした言葉はわからない。
 妻はいつまでも器用に角を舐め続ける。妻の動きもハードになっているのだが、それは終わりのない行為のように思える。角は妻の唾液まみれになるだけで、何の変化も見せない。
角がアイスキャンディーだったらよかったのに。
 いよいよわたしの思考に脈略はなくなる。妻の好きな、グレープ味のアイスキャンディーだったら、尚のことよかったのに。妻と角の下には唾液による溜まりができている。じゅるる、と妻が音を鳴らす。ひどく喉が渇いていた。わたしは飲み物を探すが、この部屋のどこにも置いていない。あるのは角だけだ。そしてその角は妻がしゃぶり続けている。
 角がアイスキャンディーだったらよかったのに。
 架空のアイスキャンディーの代わりに、わたしの嫉妬心がゆっくりと溶けて、その輪郭が、形そのものが、無くなっていく。

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